創造しないことについて【日記以上随想録未満】

2025年6月29日

バイトへ行く前に必死にこれを書き始めた。

というのも、今思いついたことを流れるように書き起こしたいから。

こうしている間にも忘れてきた。最悪。

日頃、本を読むことについて、創造することについて、凡夫なりにも考えている。

それは自分に何かしら創造的なことができるのではないかという子供じみた妄想に過ぎないが。

さらに僕はいつも何か創造的なことをして飯を食っていくことヘの憧憬が鎮まらない。

もっとも具体的に言うのならば、本を出す、ネットで記事を書くなどだ。

しかしながら妄想に浸るばかりで、字を書くことさえほとんどせず、始めたこのサイトも、この通り。

そんな中、憧れ、創造に関していくつか思ったことがあるため僕は今キーボードをパチパチ打っている訳なのだ。

僕は創造的な行為で飯は食えない。

僕には才能もなければ、努力しようという根性もないからである。

そもそもまず、生まれた環境によってスタートの位置が変わる。

音楽を創る、本を書く、思考をする。

僕にこれらの才能が備わっていた―手に入れるための素質があったようには思えない。

僕が尊敬する人はみな、青年期までに、才能の頭角をあらわしたり何かしらの創造的努力を始めている。

坂本慎太郎は、漫画を読みギターを弾いた。

Frank ZappaはIQが170以上あるし、高校生の時にCaptain Beefheatとバンドを組んだ。

僕はただ自分のことについて消極的に悩んできただけである。

ニーチェが、超人には大抵なれない、超人の親、超人の先祖になれればそれでよいと言ったのもそのためだ。

憧れについて

先に謝罪させてもらおう。「創造しないことについて」において書いてきたことは僕の中の、毒の中の毒、そいつに身を任せて書いたものだ。

では、なぜ僕のような人間が先ほどのような駄文とも言えぬ、クズによる他人との比較ばかりの糞の文章を生み出してしまうかというと、世間に何かしらの影響を与える人間になりたいと、無意識に思うからであろう。そんな欲望=憧れと共に他人と比較して自分を貶すのである。

そんなことに何も意味はない。

「もしおれがまともに暮してきたら、ショーペンハウエルにも、ドストエフスキーにも、なれたかもしれないんだ」

なんてことは特に。ワーニャおじさん、やはりそれは違うよ。

しかしながら僕は生きなければならないので、遅いスタートになってしまったが、今まで考えてきた自分なりの考えを保持したまま、現実と向き合いたい。

これまでの考えから、僕が言いたいのは、「創造的な仕事で飯を食い、それで世間に影響を与えようと画策することと、”とりあえず”僕は縁を切る」ということだ。
これは万人に対して勧めるものではない。僕は創造的な人間に憧れたものとして、敬意をもって飯を食うなんていうくだらない動機とおさらばして現実的に生きていくことにするのである。

そしてこれから、憧れから自己目的的な「没頭」へと僕は向かう。

結局創造をしてしまうことについて

まずひとつ言っておこう。僕たちは創造を高尚なものだと思いすぎている、と。

創造について、僕なりの再定義を行いたい。

僕は「創造」という言葉を「没頭」に置き換える。

なかでも忘我の境地における熱中だ。

どういうことか、先ほど挙げた天才たちは創造をした。誰も異論はないだろう。

ではそういった「創造」と僕たちがする「没頭」、これらのちがいはなんだろう。

特に違いはない。そう言いたい。

彼らの創造とは彼らの高い精神と没頭が生み出す産物である。

僕の没頭に人々からの評価は得られないかもしれないが、僕は没頭し、創造するのだ。

言ってしまえば自涜ですら創造だ。

そういった訳で、僕はやはり創造をする。自己目的的な没頭をする。

それは立派な「創造」である。

最後に

憧れへの接続と切断をしていきましょう。

ああ

なんか違う

やっぱりなんでも好きなことをしておかしくなりたいや

全てがキモくて善も悪も無いところへ