「破、グル」について

「破、グル」について

2025年4月22日
みなさんはじめまして。「破、グル」の管理人の津久井です。
 
このサイトでは、壊して、創って、踊ろう。という標語を掲げています。
 
今の自分の環境の心地良さを破壊し、どこか居心地の悪いところに身を置いてみる。そこで何かを創ってみたり、ぎこちない踊りをしてみたりする。そして人と比較するのではなく、人々が自由に踊り、それらを認め合えるところへ
 
人々がそんなところを目指すきっかけのひとつとなるために、このウェブサイトをスタートさせました。ぎこちなくとも、創造と舞踏がただそれだけで肯定されることを信じて。

このサイトではいろいろな記事を掲載していくつもりなので、カテゴリーを大きく3つに分けました。

  1. 壊すための記事 -挑戦-
  2. 創るための記事 -創作物の掲載-
  3. 踊るための記事 -遊び-

 

1では破壊≒挑戦によって自分や何かを、変化させることを目指します。
 
2では実際に創った・作ったものを掲載していきます。それは本や音楽レビュー、小説・エッセイ・日記・音楽、さらには工作など多岐にわたります。
 
3では踊り(遊び)についてです。好きなこと、広めたいことを発信し、僕たちや読者の皆さんで能動的に踊ることを目指します。

「破、グル」について

「破、グル」というタイトルは音がどこか気持ち悪くて素敵だなと思って名付けましたが、意味もあります。破は文字通り破壊のことですが、グルはグルーヴの略です。

グルーヴとは何か。ノリのことであると一般的に言われますが、個人的には微妙なズレが本質であると思います。機械的に刻まれたリズムからは生まれない人間的なズレ、それがグルーヴという形容し難い独特の空気感となるようです。淡々と刻まれるリズムから少しだけズレてみて、そこで何かを見つけたい。

グルーヴはひとりの演奏だけから生まれるものではないと思います。

あなたと私で、このサイトに関わる全ての人で、絶妙なズレを生み出したいです。

「壊して、創って、踊ろう。」について

これは今私が望んでいることをそのまま言葉にした標語です。

今まではただ待つように、自分に変化が起きることを期待していました。

しかし何故か、そこで得られたのは”反動的な力”だけだったように思います。

反動的な力というのは徹頭徹尾、受動的かつ否定的なものです。反発するだけで何も創造せず、気持ちよく踊ることすらも阻んでしまう。

そんな反動的な力と決別することを決めた今、受動的にではなく能動的に世界と関わり、創って踊るためのサイトを作りたいと思ったのです。私だけでなく、このサイトに関わる全ての人が創って踊るためのサイトを。

最後に

私には何もないと思っていましたが、なんとかこのサイトを作ることはできました。
 
本当にぎこちない文体や内容になるかもしれません。しかしこの先に何かがあるような気もするのでとりあえず挑戦してみます。
 
どうぞよろしくお願いします。
 
みんなで壊して、創って、踊りましょう。

番外編 「壊す、創る、踊る」

壊すことについて

”深く憂慮する人たちは、今日こう問う。「人間は、いかにして保存されるか?」と。だがツァラトゥストラは、唯一かつ最初の者として問う。「人間は、いかにして超克されるか?」と。(…)おおわたしの兄弟よ、人間において私が愛することのできるのは、彼が過渡であり没落であるということ。そして君たちにも、私に愛と希望を抱かせる多くのものがある。”

白水社 ニーチェ全集 第Ⅱ部 第一巻  ツァラトゥストラはこう語った (Ⅳ 高級な人間) 薗田宗人訳

ツァラトゥストラと深く憂慮する者は、私たち自身の中にも存在している。

「人間が過渡であるように私も過渡であり、私には愛と希望を抱かせる多くのものがある」と考える自分がいる。

一方で、「私は、いかにして保存されるか?」と問い直す自分もいる。

それらはどちらも必要なものとして確かに存在するものの、定住によって安定した生活を営む私たちには、保存の欲求が超克—すなわち変化の欲求に勝っていることが多い。

なるほど保存の欲求は私たちを安全な場所へ留まらせてくれるが、変化を志向するときには強大な恐れとなり、私たちを抑圧する。

たとえ変化を本能的に求めているとしても、保存の欲求からは簡単に逃れられないということである。

しかし変化の欲求が保存の欲求を上回り、破壊という否定的に響くこの行為を肯定的に受け入れたときに、本当の変化が始まるように私には思われる。それゆえに、保存の欲求、さらには自分を破壊する

もちろんすべてを壊すわけではない。

すべてを壊すのは、自暴自棄に陥った人間の自己否定的な行為ではないか。

重要なのは、すべてを反動的な力で破壊し尽くすことではなく、保存の欲求を従えながらそれを乗り越えることだろう。

そのようにして能動的な破壊は行われるのだ。

人間が過渡であるように、破壊もまた過渡である。
 
次は、創造をしよう。

創ることについて

作る。創る。
 
これらは、私たちが失いつつあるものであるように思われる。
 
それは私たちが高度な文明を築き発展してきた証か?それとも弱化の兆候か?
私たちの多くは提供される製品やコンテンツをただ受け取り、楽しむ。その授受は何度も繰り返され、加速していく。
 
加速には効率化が伴い、効率化は複雑な仕組みの中に単調な規則をもたらす。
 
私たちが徐々に退屈を感じ始めても、もはや速すぎて抜け出せない
 
さらに受動的なコンテンツの享受は私たちを創造から遠ざけ、平均化する。それならば、退屈から抜け出すために、何かを生み出すために、せめて能動的にコンテンツを受け取らないか?
 
いや、能動的にそれらを奪わないか?
 
奪ったもので何かを創ろう。たとえ芸術作品でなくても、人に称賛されるものでなくても。
 
世界に対して能動的に関わるために何かを創ろう。
 
そうして、自己目的的な創造は、踊りへと変貌する。

踊ることについて

アイデンティティを失い、心の拠り所を見つけられず、抜け殻となってあたりをふらついている人もいるかもしれない。
 
やっと拠り所を見つけたとしても、無数の大きな声がネット通じて周りを飛び交い、誰かがそれを偽物だと暴露する。そして時には自分も暴露の快感を得てみたりもする。
 
私たちはその中で「すべては空虚である」という真理を見出す。その真理を発見すると同時にそれは私たちの中で心地よく響き始め、やがて他人にまで伝播していく。
 
だがそれでよいのか。
 
ニヒリズムに先はなく、言葉は無機質なサインカーブへと変わり、すべての踊りが無意味だと非難される。
 
そんな心地よい仮の真理を破壊し、無我夢中で踊りたい
踊りは空虚を破壊するだけに留まらない。
 
私たちは、無数の人々の解釈をかき集め、そこに見出した簡単な法則を善悪や価値として信じ込む。
 
そんな法則に支えられた縦方向の闘いに敗れる者は、排斥される。少なくとも疎外感と劣等感を与えられる。それが現在、否定的に語られる格差であり差別というものであろう。
 
しかしながら、その単純化された価値基準の枠から能動的に外れることはできるはずだ
 
それこそが踊りではないか。
 
みんなで様々な方向へ踊って枠からはみ出していこう。それによって多様性を創り、格差を多方向へと敷衍させ、それすらも肯定しよう
 
全てが暴露され本当の価値がわからなくなった今、踊ることを最高の価値としよう。
 
みんなで踊ろう
 
みんなが踊らなくても、まずは自分から踊ろう

あとがき

偶然に身を任せるような、ただ踊るような、そんなところへ行きたい。

しかしながら今の私から出てきた文章は、変化と破壊への欲求が暴発したようなものだった。

これは私が過渡である証拠だろう。

段階的に踊り方を覚えていこうか。

津久井

津久井

「おはようまだやろう」のギターでごはん3杯食ったことがある

何にもできないけど、何かしたくてウェブサイトを立ち上げてみました。

旅、車中泊、音楽、本、コーヒーなど幅広く書いていくつもりです。

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